仙川ポータル

愛犬と過ごす世田谷と調布の境の街「仙川」。仙川周辺をブラブラ見つけたものや気になったものを紹介しています

滝坂旧道 - 仙川周辺の史跡

南北に仙川とつつじヶ丘を分かつ、国分寺崖線に対して垂直にあるのが国道20号線の甲州街道です。滝坂は仙川キユーポート前の仙川二丁目交差点から滝坂下交差点にかけての坂です。

「滝坂」の名前は滝坂小学校や滝坂下交差点など今でも残っています。道路が舗装され自動車に乗るようになっているので、今では意識することはありませんが、馬車や荷車が主流だった時代には甲州街道の難所のひとつとされていました。

詳しくは後述しますが、昭和2年頃に滝坂新道へ切り替えられ、現在我々が知っている甲州街道の滝坂となります。

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滝坂は、甲州街道と滝坂道とが交差する場所でもありました。

島忠ホームズや桐朋学園の前の都道118号線は、通称「滝坂道」と呼ばれています*1。渋谷区の道玄坂上から調布市の滝坂上までの街道の西側半分が都道118号線、東側半分が都道423号線となります。

大正期には滝坂道は終点地の滝坂上に接続されていましたが、昭和21年(1946年)撮影の航空写真では現在のように滝坂道(都道118号線)は仙川二丁目交差点に接続されています*2

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上図で「まゆ買場」や「戸長・田辺家」などの注釈をいれていますが、これらは川口三八さんのコラムが元になっています。

滝坂上の馬宿・川口屋で滝坂新道と滝坂急道に分岐する

滝坂の上には、馬宿・川口屋がありました。馬宿(うまやど)といえば、江戸から地方に対して伝令を伝えるために馬を交換する施設です。

当たり前ですが江戸時代にはインターネットや電話はありません。江戸から地方に対して連絡したいときには人が走ったり、馬に乗って走っていたりしました。馬は疲れてしまうと走らなくなるので途中途中で乗り換える必要がありました。馬を交換するのが馬宿の役割でした。馬を提供するのは各村での義務で、下仙川村でも村民でお金を出し合って幕府のために馬を提供していたようです。

当時、馬宿・川口屋では、滝坂を登りきった・滝坂をこれから下る馬方(うまかた、馬に荷物を運ばせる商人)や行商人相手のために宿屋を生業としていました。

現在では馬相手の商売はやっていませんがこの川口家は現在でも残っていて、甲州街道から滝坂旧道への分岐の目印となっています。写真だとわかりにくいのですが滝坂新道の方はなだらかになっているのに対して、滝坂旧道は急勾配なので道の先がストンと見えなくなっています。

左側の道が現在の甲州街道(滝坂新道)、右側の道が滝坂旧道です。

大正時代の馬宿・川口屋の周辺について

大正期には、仙川二丁目交差点から順に「深大寺表参道の碑石」「まゆ買場」「戸長・田辺家」「馬宿・川口屋」「無量庵」が並んでいたようです。大正期から残っているのは川口家と薬師如来像くらいではないでしょうか。

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仙川町二丁目交差点あたりには深大寺表参道の入り口を示す碑石がありました。碑石には「元三大師」の文字が彫られています。

東京オリンピックの際におこなわれた国道20号の道路拡張工事に伴い撤去されることになり、今も深大寺境内に現存しています*3

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「まゆ買場」や「戸長・田辺家」のあたりは宅地として分譲されています。川口屋の西隣にあった「無量庵」は尼寺だったのですが失火が原因で焼失してしまい、少しの墓地を残してずっと空き地だったようです。滝坂上と違って崖のある場所なので新しい家を建てにくかったんでしょうね。

現在の川口家

現在の馬宿・川口屋(地図①)です。立派な門があり草が生い茂っていて見つけにくいかもしれませんが「瀧坂旧道」の碑石が建っています。

昭和2年になだらかな勾配の滝坂新道に切り替えられるまでは「瀧坂旧道」の方が甲州街道でした。旧道は今でも急勾配の道ですが、江戸時代にはもっときつい勾配だったようです。明治期に何度か改修工事がおこなわれたようです。

明治天皇が落馬しかけたので滝坂旧道改修工事

天皇が出かけることを行幸(ぎょうこう、みゆき)といい、行幸した土地のことを聖蹟(せいせき)といいます。そうですね、京王線の「聖蹟桜ケ丘駅」の聖蹟は明治天皇の行幸なされたことに由来しているのは京王線ユーザーならご存知ネタです。

明治天皇は兎狩りや鮎漁のために多摩方面に4回行幸なされているのですが、ある時、明治天皇の乗馬が滝坂で足を滑らし落馬しかかったことから、坂を切り崩してなだらかにする改修工事が数度おこなわれたそうです。

坂道をなだらかにするため崖を切り崩すと土地と道との高さが変わってしまいます。

工事のたびに川口家では玄関を道の高さに合わせたので家の中がひな壇のようになってしまっているようです。現在、家屋は道よりも若干高い位置にありますがこれが元々の甲州街道の道の高さだったのだと思われます。

尼寺・無量庵が焼失した理由

前述したように「無量庵」は焼失してしまったのですが焼失した理由がなかなか新しいです。明治末期に洋ランプが流行り煌々と照らすようになるのですが、尼さんが日本橋までランプを買いに行き、近くの人たちを集めてはランプの明るさを自慢していたようです。

当時仙川には電気が通っておらず、甲州街道沿いの神代村と調布村で初めて電灯が灯ったのが大正2年(1913年)6月のことなので、それより昔の話になるのでしょう。

洋ランプの燃料には石油を使います。ランプを荒縄でぶら下げてしまいそこから火が伝わり建物を燃やしてしまったようです。

尼寺・無量庵の場所が現在でもそっくりそのまま残っているのがわかります。

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今までずっと空き地だった理由のひとつは崖部分で土地の造成が困難だったことが挙げられるかと思います。2016年4月現在、薬師如来坐像前の空き地は大きなマンションを建てるためなのか崖を削って土地の造成がおこなわれています。

自動車が走る以前の甲州街道の面影を残していると言われています。馬に乗ってた人もいたでしょうけれどこれくらいの幅があればすれ違えたんでしょうかね。

このあたりには甲州街道整備の目的で砂利を採掘していた「穴」があったそうです。「穴」は奥行き500〜600メートルほどだったらしいのですが、ここまで大規模の造成がされているとなると穴は埋められてそうですね。

晶翁寺は大悲山無量院と号していているので、無量庵と何か関係があるのかもしれないですね。

滝坂旧道の途中にある薬師如来坐像

薬師如来坐像(地図②)です。

ここの横から武者小路実篤記念館の通りは鎌倉街道と呼ばれていたらしいのですが該当する史料を探すことができませんでした。昭和21年(1946年)の航空写真でもそれっぽい道はわかりませんでした。

滝坂の道路拡張の歴史

大正天皇の崩御後、1927年(昭和2年)に造営された多摩御陵(武蔵野墓地)の完成に伴い、都心から多摩へ向かう甲州街道が整備されます。整備工事の一環で滝坂旧道から滝坂新道へ切り替えられました。昭和2年といえば仙川駅から金子駅への掘割工事など仙川付近で大きな工事が続きました。

現在の道路幅になったのはそれから数十年後の東京オリンピックの時です。

甲州街道の交通量の増加に伴い、2016年時点でさらに道路拡張工事がおこなわれています。

「滝」のような厳しい坂から現在の緩やかな坂へ変わったように、滝坂は今も進化を続けているようです。

*1:昔ながらの仙川の方には南街道と呼ばれていたようです

*2:昭和2年の京王線の堀割工事の影響でしょうか

*3:碑石の写真はこちらのページより引用させていただきました。